第八話 青年インカ(4)【 第八話 青年インカ(4) 】 今、敵将スワレスが目を見張るその天幕の中には、まるで宮廷内のごとくの、目を疑うほどの豪華な装飾と内容の晩餐の間(ま)が展開していたのだった。 一体、ここは、どこなのか…?! とても戦地の野営場の一角などとは思えない…――いや、時間さえも、古(いにしえ)のインカ時代に戻ってしまったような錯覚さえ起こさせる。 スワレスたち一行は、目を瞬(またた)かせながら、恍惚と視界を見渡した。 この戦乱の最中(さなか)に、どこから運び込んだのか、目を疑うほどの見事な調度の施された豪奢なテーブルや椅子たち。 それらテーブル上には華やかな輝きを放つ極彩色の布が幾重にも重ねてかけられ、その上には、いかにも美味そうな、しかも見た目も麗しく、豪華な、インカの名物料理が山のように並ぶ。 アンティクーチョ(牛の心臓の串焼き状ステーキ)、チチャロン・デ・コスティジャ(スペアリブの唐揚げ)、ロモサルタード(牛ひれ肉のステーキと野菜の炒め物)、ユキタ・フリタ(キャッサバ芋のフライ)などが所狭しとばかりに豪勢に並び、それぞれの料理にタクタク(煮豆とライスを混ぜて焼いたもの)が添えられている。 その上、この山岳地帯まで一体どうやって取り寄せたのか、チョリートス(檸檬を添えたムール貝のマリネ)やセビッチェ・ミクスト(香草をあしらった魚介類のマリネ)まである。 もちろん、酒宴の席に欠かせぬトウモロコシを原料とするインカの伝統的な酒、チチャ酒の樽はお約束のように何本も置かれ、さらには、スペイン人の招待客を意識してか、琥珀色に輝くピスコ(ブドウ果汁の蒸留酒)が滴る酒樽も並べられていた。 天幕に足を踏み入れたスワレス大佐ほか、彼の護衛の数十名の白人兵たちは、思わず生唾を呑み、この想像を超えた歓待ぶり、否、その権威を見せつけるがごとくの恣意的な豪奢さに、不覚にも気圧され、その身をやや退(ひ)きかけた体勢になっている。 そんな彼らの視界に展開するのは、決して豪勢な料理や調度品ばかりではなかった。 真昼と見紛(みまが)うほどの、煌々と輝き渡る燭台が随所に飾られ、広大な天幕の中央上部に飾られた黄金製の太陽神像を、あらゆる角度から照らし出している。 そして、その太陽神の真下に据えられた中央の席には、匂い立つような混血の美青年…――インカ皇族としての礼服……金糸の繊細な刺繍の施された漆黒の衣服に、深紫色のマントを纏(まと)って正装した、かのアンドレスが座して待つ。 (アンドレス…――?!) 引きつるように目を見開くスワレスを、アンドレスの視線が、ゆっくりと動き、貫いていく。 「スワレス大佐、ようこそ我が陣営へ。 先日の我々への歓待、かたじけなく思います。 今宵は、ささやかな返礼の晩餐を用意いたしました。 さあ、どうぞこちらへ…――」 目元に鋭い眼光を添えながら、薄っすらと笑みを浮かべたアンドレスが、皮肉を込めた声で、低く言う。 そのアンドレスの、人形のように精巧で美麗な表情は、均整の完璧さゆえに、今は、かえって容赦無い冷徹さを湛えて見える。 スワレス大佐は険しい眼を剥(む)き出しにしたまま、いつしか硬く拳を握り締めていた。 (…つっ……アンドレス…――…!) 次第にその手の中に、不快な汗が滲みはじめる。 このスワレスは、アンドレスとは此度のソラータ戦が初対面ではなかった。 彼は、かつてティティカカ湖畔の聖地プノの戦場――アンドレスがトゥパク・アマルから独り立ちし、当地ラ・プラタ副王領に遠征してきた際の最初の合戦である――にて、この、まだ18歳の若い将を、上官のイグナシオ・フロレスと共に一度見かけてはいた。 だが、距離を隔てていたためもあろうが、その若者は、確かに武術の腕は立とうとも、大軍の将としてはまだまだ若輩すぎるという印象を、あの時は抱かせた。 此度のソラータ戦でも、陣頭に立つその戦闘ぶりを遠目から幾度か目にはしていたが、かつてのプノ戦の際と異なる印象は、別段、受けてはいなかった。 今、アンドレスは、そんなスワレスの胸中を見抜くがごとくに、美しい目を細めて鋭く一瞥し、低い沈着な声で言う。 「スワレス大佐、さあ、中へ。 あなたをお待ちしていたのですよ。 どうぞおかけください」 「……」 (この者が、アンドレス――か? 戦場で見ていたのと、同一人物か?!) スワレスはますます険しい眼になりながら、ともかくも、指し示された椅子に向かう。 (あの時は、もっと青臭い若僧だったではないか!!) 己が思い描いていた算段とは、流れが微妙にずれてきていることを感じ、スワレスの表情は苦(にが)くなる。 だが、ここは、相手に呑まれている場合ではない、と、素早く心を立て直す。 そして、席の前まで来ると、スワレスは、いかにも申し訳なさげに頭を下げた。 「アンドレス殿…、先日はわたしの副官のピネーロが、独断で、あなた方に大変な粗暴を働きましたことを、まずは深くお詫び申し上げる。 ピネーロは、即刻、逮捕し、監禁しています。 どうか、お気を悪くなされますな」 「分かっています」 アンドレスは感情の見えない声でそう言うと、「さあ、頭を上げてください。せっかくの和議の席なのです。過ぎたことは、もう忘れましょう。おかけになってください」と、着座を促す。 「このような歓待、かたじけなく存ずる」 平静を装いながらも、そう応えるスワレスの声は上擦っていた。 それを隠すように、彼は慌てて咳払いをする。 そんなスワレスに、アンドレスは微かな笑みを浮かべて、ゆっくり頷く。 「いいえ。 このようなところまでお運び頂き、真にいたみいります。 今宵は、和議を結びたき慶びの日。 スワレス殿、そして、護衛の方々も、ご着座を……」 アンドレスのその口調は真摯でありながらも、威厳に満ち、完璧に落ち着き払っている。 その声と仕草に、周囲のインカ兵たちも、吸い寄せられるようにそちらに視線を注ぐ。 そして、ハッと大きく瞳を見開いた。 その時、彼らの視線の先には、絹のような漆黒の長髪がかかる黒マントをゆるやかに身に纏い、蒼い光を宿した切れ長の目を細めて、静かに微笑する人物の姿が見える。 彼は、優美な手つきで己の真正面の席へとスワレスを促しながら、低く、深遠な声で言う。 「さあ、そなたは、こちらへ――。 敵味方など忘れ、こうして共に食卓を囲み、仲睦まじく酒を酌み交わしてみたかった。 どうか、皆、ゆるりと寛(くつろ)いで参られよ」 老賢の重臣ベルムデスをはじめ、天幕の中で事の成り行きを見守っていたインカ兵たちは、目を疑って息を呑む。 ――え?!トゥパク・アマル様……?!!―― まるで、そこに、本当にトゥパク・アマルが座しているかのごとくの錯覚を覚えたのだ。 皆、思わず目を瞬かせる。 そして、再び、瞳を凝らす。 が、今、そこにいるのは、紛れも無く、あのアンドレスであった。 (アンドレス様……!) ベルムデスは目を細めて、そっと笑みをこぼした。 (トゥパク・アマル様…あなた様も、そこからご覧になられておりましょうか。 ふ…アンドレス様は、だんだんあなた様に似てこられましたぞ) やがて、アンドレスがスッと片手を上げて合図を送ると、可憐に装った、清楚な雰囲気の美しい十数名のインカ族の少女たちが、まるで舞台袖から出てくるように垂れ幕の陰から現われ、慎ましやかな仕草でスペイン兵たちに礼を払った。 それは、まるで、かつてのインカ帝国時代に太陽神殿に仕えた若く美しい巫女たち、アクリャコーナ(ACLLACONA:太陽の乙女たち)を彷彿とさせる。 白糸で織られた衣を纏い黄金の花冠をつけていたインカ帝国の巫子たちの姿そのままに、足元まである白亜の衣装に、黄金の花冠を模した金糸の織布を額に飾った可憐な乙女たち。 インカ帝国時代に、チチャ酒を満たした黄金の水差しを手に皇帝のもとで神事を執り行ったアクリャコーナさながらに、天幕の少女たちも、舞うような軽やかな身のこなしで、黄金に輝く水差しから兵たちのグラスに酒を注いでいく。 まるで、遥かなるインカ帝国の絵巻物のような美しく神秘的な光景に、スワレスも、スペイン兵たちも、驚きと恍惚の表情で、にわかには身動きできずにいる。 実のところは、彼女たちは、アンドレスの呼びかけに応じて、近隣の村々から、今宵のこの宴のために、急遽、馳せ参じてくれた村娘たちであり、実際、この天幕内にある調度品から料理に至るまで、それら村々の人々や豪族たちの協力があってこそ実現できたものばかりであった。 このようなことが可能であったのは、さすがにインカ皇帝トゥパク・アマルの甥たるアンドレスには、それ相応の財力があったことと、彼の働きが、少しずつ民の間にも認知され、賛同者を得はじめていたことの証(あかし)でもあった。 そんなアンドレスは、今、チチャ酒の注がれた深紫色に光るグラスを傾け、スワレスにピタリと視線を合わせたまま、低く、「乾杯…――」と言って、再び薄く微笑む。 その表情に、スワレスは固唾を呑んだ。 アンドレスの、インカ族とスペイン人の血を引く絵のような美形は、その隙の無い均整さ故に、この状況下のスワレスの目には生身の体温が感じられず、冷血なほどに凄みを帯びて見える。 かくいうスワレスとて、生粋のスペイン人らしい彫りの深い造詣に、「大佐」にまで昇り詰めた経験と年輪に裏打ちされた貫禄と深みを備え、決して人目を引かぬ雰囲気の男ではない。 スワレスは、呑まれかけた己を叱咤するように、負けじと睨みを利かせた眼でアンドレスの顔から決して視線をはずさず、琥珀色のピスコ酒の満たされたグラスを口に運ぶ。 アンドレスも、相手を鋭く見つめたまま、チチャ酒のグラスに唇を触れた。 張り詰めた緊張感に、天幕内の空気が音を立てて軋(きし)みを上げるのではないかと思えるほどだった。 天幕内で見守るインカ兵たちも、そして、スワレスと共に着座している護衛のスペイン兵たちも、その息詰るような空気に、頭の中がキンキンと痛んでくる。 そんな中、中央のアンドレスが、急に、ふっと顔をほころばせた。 その瞬間に、場の空気が、ガラリと変わって、緩(ゆる)む。 アンドレスはフーッと大きく息をつくと、無造作にグラスを置いて、両腕を挙げて伸びをした。 そして、まるで子どものような無邪気な声で言う。 「さあ、もう、堅苦しいことはやめましょう! どうぞ、どうぞ、召し上がってください。 互いに、こんなに難しい顔をしていては、せっかくの料理も、まずくなってしまうってもんです!」 そう言って、親しみ深い表情で、ニコニコと笑う。 「…!!」 唖然とも、愕然ともとれぬ表情をしているスワレスに、アンドレスは可笑しそうにクスクスと笑って、続けた。 「ふふ…毒なんて入っていませんよ。 安心して召し上がってください」 「!!」 スワレスは、瞬間、逆に何かの策謀かと、ギョッと目を見張ったが、アンドレスは、もう、すっかり、全く純粋な屈託無い笑顔である。 そこに謀(はかりごと)の気配は、微塵も見えない。 当のアンドレスは、ゆったりとした仕草で煌(きら)びやかなテーブル上を指し示し、再び、こちらに笑顔を向ける。 「さあ、スワレス殿も、他のみなさんも、食べてみてください!! どれも、インカの代表的な料理ばかりなんですから。 ええと…、これは、ロモサルタードといって…」 自ら料理の説明まではじめた眼前の若い敵将を、スワレスは相変わらず不審そのものの面持ちで見据え続ける。 もちろん、インカ族の彼らが、戦闘中の戦場でもない限り――紳士的と言うべきか、おひとよしで無策と言うべきかはさておき、こうした場で命に危害を加えてくることはないと知っているから、当初から、スワレスは、この場での命の危険については殆ど危惧をしてはいなかった。 だが、まだ、事の展開についていけない。 (この若僧…一体、何を考えているのだ?! ただの能天気か? …――いや、まさか…よほどの策略家か…?!) 未だ混乱と疑惑の渦中にあるスワレスやスペイン兵たちに向けられる、アンドレスのその笑顔は、あの彼特有の輝くような華やかさを宿し、無意識のうちに見入ってしまうほどに眩しく朗らかである。 先ほどまでの鋭さはどこへやら、全く少年のように無防備な笑顔を向けてくるアンドレスを、スワレスは呆然と唖然の表情で眺め入る。 そんなアンドレスの様子を傍らで窺(うかが)いながら、老練のベルムデスは、微笑ましさと可笑しさと、加えて、独特の頼もしさから、思わず、プッと吹き出しそうになる。 そして、慌てて口を押さえた。 彼は目元に皺を寄せて静かに微笑みながら、つい、心の中で、トゥパク・アマルに語りかけてしまう。 (トゥパク・アマル様…、アンドレス様のやり方は、あなた様とはちょっと違うようですな。 それなのに、やはり、あなた様がたは、どこか、とても似ておられる) そんなベルムデスの思いなど全く他所のままに、アンドレスは、相変わらず、人懐こい眼差しで白人たちを見渡している。 「盛って差し上げておくれ」 彼の呼びかけに応じて、周囲に控えていたアクリャコーナの如くに可憐な少女たちが、慎ましやかにスペイン兵たちの脇に沿い、好みの料理を盛っていく。 まだ、放心しているスワレスたちに、「さあ、召し上がってください」と、すっかり寛(くつろ)いだ調子で自分も口に料理を運びながら、アンドレスがにこやかに勧める。 「本当に美味しいですから! さぁ…!」 いかにも美味しそうに料理を食する彼の笑顔につられるように、スワレスも、ついに料理を口に運んだ。 「どうです?!」と、アンドレスが、いかにも美味しいでしょう、と言わぬばかりに自信ありげに微笑み、料理を口にしたスワレスの反応を覗き込む。 スペイン人の好みも考慮して調理されたそれらの料理は、スワレスが素直に認めるほどに、確かに、美味であった。 「ああ…本当に、これは、なかなかに美味しいですな」と、感心したように頷くスワレスに、アンドレスは本当に嬉しそうに頷き返した。 「そうでしょう!! どれも、インカ時代からの自慢の伝統料理ばかりなのですよ」 その、本心からの、真摯で柔らかな、それでいて、どこか大きく包み込むような笑顔に、スワレスの心も、自然に溶かされ、ほぐれていく。 それは他のスペイン兵たちも同様であった。 いつしか場の空気はすっかり和(なご)み、スペイン兵たちは、共にテーブルを囲むインカ兵たちと互いに酒を酌み交わしながら、それぞれの国の料理自慢などがはじまっている。 そんな温かな場の雰囲気を、既に何杯目かのグラスを手にしながら嬉しそうに眺めているアンドレスの様子を、まだ酒にあまり慣れぬのに大丈夫かと少々案じる眼差しになってきたベルムデスが、やや真顔になって見守り続ける。 アンドレスは、早々に己の席を立ってスワレスの横に椅子を引き寄せて座り、相手からピスコ酒を取り上げ、「さあ、その葡萄酒のような酒はやめて、わたしたちインカの酒も飲んでください!」と、トウモロコシから成るチチャ酒を手酌などしている。 一方、スワレスも、「アンドレス殿も、わたしにばかり勧めず、さあ、飲まれよ」と、逆に、ピスコを波々と注(つ)いでくる。 まだ少年の面影さえ残す、かたや18歳の若者に対し、スワレスは堂々たる壮年の貫禄――酒ひとつにしても、経験の差は否めぬはず。 事実、スワレスの面持ちには、次第に余裕の色が濃くなっていく。 さすがに、冷やりとして見守るベルムデスの視線の先で、アンドレスは素直に相手の酌を受け、「それでは」と、一気にそれを飲み干し、これくらい軽い、と言わぬばかりに目の端で笑う。 そして、スワレスにも、その眼差しで「さあ」と、勧める。 因みに、トウモロコシから成るチチャ酒は、アルコール度数も8度程度で、強さも味もマイルドだが、対するピスコ酒は――糖度の高い葡萄を蒸溜して作られるために、適度な甘みがあり美味ではあるが――そのアルコール度数は40~45度という、なかなかにきつい酒である。 スペイン人に植民地化されてまもなく、ヨーロッパ大陸からペルーに葡萄が持ち込まれたが、なかでもケブランタと呼ばれる黒色で糖度の高い葡萄がペルーの土壌と気候、特に現在のイカ県(註:ナスカの地上絵観光の拠点となる地)を中心とする南部の海岸地域に適し、栽培が広がった。 結果、ペルーは新大陸におけるワインの主要生産地となったという経緯がある。 ともかくも、今、二人の将、アンドレスとスワレスは、次第に酒の応酬と化した饗宴のテーブル上で、額を付き合わせるようにしながら言葉を交わす。 スワレスは、目元で面白そうに笑い、「わたしを酔わせて、思い通りに話しを進めようとの魂胆かな?アンドレス殿」と、冗談めかした口調で言ってくる。 「それは、スワレス殿、あなたの魂胆でしょう?」と、アンドレスも冗談めかして応える。 「スワレス殿、あなたが、このソラータから兵を引くというのであれば、わたしは、あなたたちを深追いもせず、むしろ、安全に撤退できるよう援護することを厭(いと)わない」 いよいよ本題を切り出してきた眼前の若者を、スワレスは、瞬間、真顔になって鋭く見据えるが、既に酒の大分入った頭では、緊張感はさして続かない。 スワレスの表情がやや険しくなりながらも、どこか緩んだ気配の変らぬ様子を見届けながら、アンドレスが誠意を込めた声で言う。 「スワレス殿。 あなたが個人的な怨念から、このソラータで籠城しているわけでも何でもないことは分かっています。 それは、俺とて、同じ。 祖国を思うが故の、やむにやまれぬ行動にすぎますまい。 俺たちは、本当なら、こんなふうに、共に料理を囲み、酒を酌み交わして、楽しく話しもできるのだから…」 「確かに、個人的な恨みつらみなどではない。 だが、アンドレス殿、貴殿が当地を譲れぬように、我々も、当地を譲れぬのは、同じことだ。 率直に言って、我が軍は、当地から撤退する考えは持っていない」 「…!! スワレス殿…貴軍のおかれた状況を、もう一度、よく振り返ってご覧ください。 あなたがたは、我が軍勢に完全包囲されているのですよ? だけど、俺は、ソラータの住民を巻き添えにしたくないのと同じに、こうして酒まで一緒に飲んだあなたがたを、殺したりしたくはない。 だが、あなたが、今ここで和議を結ぶのを断れば、今度こそ、俺は完全に食糧も何もかもの補給を絶たねばならない。 あなたも…あなたの兵たちも…、今度こそ、一人残らず飢えて死ぬまで…! スワレス殿、将のあなたが、今、ここで和議の提案を断れば…俺は、今度こそ……」 かなり酒が回ってきたのか、アンドレスの言葉は、次第に途切れがちになってきた。 話の内容も、同じところを、ぐるぐると回っている。 一方、スワレスは、己の隣で既に崩れかけた姿勢のままにテーブルにもたれているアンドレスを斜めに見下ろしながら、分厚い胸板を反らし、椅子にゆったりと身をもたれかけた。 今、薄く笑っているのは、むしろスワレスの方である。 スワレスは、傍のスペイン兵たちに素早く視線を走らせ、意味あり気に目配せする。 それから、再び、アンドレスの方に視線を戻した。 そして、ねぎらうような口調で、低く言う。 「アンドレス殿、かなり酔いが回ってきているとお見受けいたす。 どうだろうか? 少し外の空気でも吸いに参らぬか? これほどの歓待に、わたしもすっかり気分も何もかも酔ってしまった。 ご一緒に……」 「いいえ!」 伏(ふ)せがちになりながらも、アンドレスがピシャリと制する。 「スワレス殿、お気遣いは嬉しいですが、今は、大事な話し合いの最中です。 まずは、和議の話しを…!」 「……」 スワレスは、睥睨(へいげい)するようにアンドレスを斜めに見下ろしたまま、内心で舌打ちしながら、目元をそびやかす。 そんなスワレスの様子に気付いてか否か、いずれにしろ、アンドレスは、朦朧としながらも、誠心誠意の真摯な声音で問いかける。 「では、スワレス殿、あなたは、俺が一体何をしたら、ソラータから撤退するお気持ちになってくれるのですか? 言ってくれれば、俺は、そのためになら、最善を……」 「いや――」 今度は、スワレスが、冷ややかにアンドレスを遮った。 「アンドレス殿。 こうして直接、貴殿と話しをできたことは、我が軍にとっては幸いだったと言わざるを得まい。 アンドレス殿の、その情に深いお人柄では、どの道、ソラータの住民を犠牲にすることなど絶対にできまいよ」 「…――!!」 「アンドレス殿」 スワレスの声音には、明らかに、余裕を通り越して、皮肉とせせら笑いが混ざっている。 彼は、本来の己を完全に取り戻した威厳ある太い声で言い放つ。 「貴殿が口先でどれほど強がってみせようが、このまま我が軍が住民もろともソラータの立て篭もりを続ければ、必ず貴殿は包囲網を解く時がこよう。 アンドレス殿、貴殿は、そういう人だ。 飢えに苦しみ死んでいくソラータの住民を見捨てることなど、絶対に、できまいよ。 堪(たま)りかねて、必ず、包囲網を解く時がくる」 さらに、スワレスは、伏しかけているアンドレスの方に身を屈(かが)め、囁きかけるように続ける。 「ならば、アンドレス殿、それまでの時間が、それこそ貴軍にとって無為なものではあるまいかね? 本心では、あのトゥパク・アマルを助けに、一日でも早く、当地を引き払ってペルーに戻りたいと思っているのであろう…? あの謀反人が処刑される日も、そう遠くはあるまい。 このまま何もかもが手遅れになる前に、むしろ、早々に当地から撤退するのが懸命なのは、貴殿の、この、インカ軍の方ではないのかね?」 「!!」 アンドレスは、きっ、と顔を上げ、酔いのために潤んで充血しかかった瞳で、喰い入るようにスワレスを睨んだ。 「……俺は、本気で、言っている! もし、おまえたちがソラータから意地でも撤退しないと言い張るなら、俺は、今度こそ、おまえたちが飢え死ぬまで包囲をし続けると決めている…!! 甘く見るな……!!」 ふっと鼻先で笑いながら、スワレスは、にやつきはじめた口の端にピスコのグラスを触れた。 「では、もし、わたしが、それでもソラータから兵を引く気はない、と、そう応えたら、アンドレス殿はどうなさるおつもりかな? 今、ここで、わたしをどうにかするとでも?」 相変わらず朦朧としながらも、しかし、アンドレスの横顔に深い苦渋が走った。 その口元から、聞き取れぬほどの声が、呻くように漏れる。 「何故…分からないのか……!! あなたという人は…スワレス殿…!」 完全に酔いが回ったのか、己の脇でテーブルに倒れかかるようにしているアンドレスを冷徹な眼で見下ろしながら、スワレスは琥珀色の液体を喉に流し込む。 (アンドレス、都合良く、酒に呑まれてくれたのか? それにしても、結局は、思っていた通り、まだまだ若輩だ。 はじめのハッタリには、少々、こちらも気圧されはしたが……) そんな胸中を隠して、スワレスは、再び、気遣うような声で誘いかける。 「どうだろうか…、やはり、少し外の風にでもあたった方が、酔いも醒めるのでは? その状態では、これ以上、まともに話し合いもできはすまい…?」 声をかけながらも相手の状態を正確に把握しようと、伏したアンドレスの上に、まさぐるような視線を走らせるスワレスの横で、当のアンドレスは、ふらつきながらもゆっくりと顔を上げた。 そして、ふっと苦笑する。 と思いきや、次の瞬間、いきなりスワレスの首に、己の腕を巻きつけた。 顔を寄せていたスワレスの首は、アンドレスの腕に容易に絡め取られる。 「!…――…アンドレス?」 困惑する相手の耳元で、既に呂律の危うい口調のアンドレスが囁く。 「ソラータから兵を引く気はない? いいや…そうは言わせない」 スワレスの耳に、そのアンドレスの声は、妙に、素面(しらふ)に響き、彼は、急に真顔になって、己にもたれかかる若者に険しい視線を走らせた。 (まさか…アンドレス、この者、先ほどから酔ったふりをしているだけではあるまいな?! こちらを油断させようと?!) 不意に真顔になったスワレスの視線から発せられる無言の言葉を読み取るかのように、アンドレスは、「いえいえ、まさか」と、さらに充血した瞳で応える。 「酔ったふりなど、そのような器用な真似、この若輩のわたしにできようはずがありますまい? はは…本当に、白人たちは、疑り深い…!!」 そう言って、虚ろなはずなのに、どこか非常に鋭い光を宿した目で、薄っすらと微笑む。 「さあ、スワレス殿、もう一度だけ聞きますよ? 和議を結んで頂けますか? 貴軍の兵の命の庇護と引き換えに、ソラータから、即刻、撤退すると……」 スワレスは、アンドレスの腕に首を絡め取られたままに、真っ直ぐに座りなおした。 そして、低く、這うような声で問う。 「だから…もし、撤退を断ったらどうすると言うのだ」 完全に真顔になったスワレスの目が、鋭利に光る。 「撤退を断る……? スワレス殿、そうは言わせぬ…と、申し上げたでしょう?」 相変わらず己にもたれかかったままに、しかし、次第に眼光を増すアンドレスを見るスワレスの眼は、いっそう険しくなりながら、疑惑と警戒の色をありありと浮かべる。 「アンドレス、それは、どういう意味だ?」 そう言葉を返しながらも、スワレスの脳裏では、今もなお、冒頭からの一念が巡り続けていた。 (まさか…アンドレス…この場で、我々を殺戮しようとでも……!? いや、ありえぬ…!! インカ族の者が、このような話し合いの場で敵兵に危害を加えるなど、これまで、一度だってありはしなかったのだ。 総指揮官のアレッチェ様でさえ、かつてトゥパク・アマルの陣営での会合で、あの謀反人から指一本触れられずに帰還されたではないか…!!) そのようなスワレスの思念を打ち砕くように、アンドレスが冷徹に言い放つ。 「スワレス殿。 あなたが、この和議の話を断れば、あなたや、ここにおられるあなたの護衛の方々は、この天幕から生きては出られぬ」 「!!」 スワレスは、この期に至って、急激に、激しい危機感に突き上げられた。 (な…に…まさか……?!) 己の顔を穴の空くほどに凝視してくるスワレスに、アンドレスは相手の首に回した腕に徐々に力を込めながら、低く、凄むように言う。 「だから、あなたは断れない」 「アンドレス…おまえ……」 スワレスが呻いた時には、アンドレスの自由な片腕が、既にスワレスの腰から銃を引き抜いていた。 スワレスの腰から抜き取った銃をスワレス自身の横顔にあてがいながら、アンドレスは、今にも立ち上がらんばかりの敵兵たちに、鋭い視線を走らせる。 「動くな!!」 それから、絶句しながらも激しい混乱と驚愕に顔を歪めるスワレスを、突如、その皮膚を突き破るほどに、アンドレスの強靭な腕は相手の首を強く締め上げた。 それが合図であったかのように、入り口から多数の武装したインカ兵が天幕内部に雪崩れ込む。 その兵たちの敏捷さは、殆ど、野生の獣の群れのごとくであった。 瞬く間に、饗宴のテーブルは、厳しい面持ちのインカ兵たちにビッシリと取り囲まれる。 それと共に、インカ兵たちは銃を構え、スワレスほかのスペイン兵たちの動きに、今、完全に隙無くピタリと狙いを定める。 「!!!」 スワレスの顔面は、みるみる蒼白になっていく。 衝撃に貫かれているスワレスの表情を見下ろしたまま、アンドレスは鋭利に目を細めた。 「スワレス殿、我々インカの人間が、このような和議の場で、あなたたちに危害を加えるような卑怯な真似などしないと、高を括(くく)っていましたか? もちろん、できれば、俺も、そうしたかった。 だが、俺は、先日、我々を襲撃してきたピネーロ殿との一件で悟ったのだ。 …――いや、あの件だけでなく、この反乱全体を通して、ハッキリと思い知らされたと言った方が正確だが。 今宵、どうしても、あなたが和議の締結に応じてくれぬのならば、こうするしかないとね。 あなたたちには、あなたたちのやり方でお返しするしか、あるまいと! 今は、それほどに事態の一刻を争う……!」 己の首を締め上げながら、己の耳元で唸(うな)るように言うアンドレスに、スワレスは、苦しい呼吸の下から擦れた声を絞り出す。 「アンドレス…わたしに…どうしろと……」 「何度も言っている。 ソラータから、即刻、兵を引け。 そして、今すぐに、人質とした住民たちを解放しろ。 それに応じられぬ、というならば、おまえたちは、このままここを死ぬまで出ることはできぬ」 「う…つまり、人質ということか…? 我々を囮(おとり)に、ソラータの兵を撤退させる…ということか?」 「お察しの通り。 だが、いずれにしろ、ソラータのスペイン軍が、街中から兵を完全に撤退し切るまでは、どのみち、おまえたちは、ここを出ることはできない」 「…!! アンドレス! わたしを、信じられぬということか?! 仮に和議を約しても、それを違(たが)えると疑うか? だから、事が済むまでは、釈放をせぬと……?!」 スワレスの声には、憤怒の色と共に、驚愕の色が強く滲む。 (ありえぬ…!! これが、インカ族の者の、やり方か?!) その相手の目の色を鋭く読み取るように目元を細めたまま、アンドレスは己の腕に締め上げられている相手の顔を、冷ややかに見下ろした。 (確かに、こんな卑怯なやり方、今までのインカ族の者なら…ましてや、あのトゥパク・アマル様なら、絶対にするまい…! 俺は…先達の誇り高いありようを汚しているのだ……。 だが、今は、トゥパク・アマル様のお命が懸(か)かっているのだ! 背に腹は変えられぬ!!) アンドレスの鬼気迫る、ゆるがしようのない決意を察し、スワレスは、この事態の動かしようのなさを直観する。 スワレスはアンドレスの腕に締められたまま、長く言葉を継げずにいたが、やがて、ふっと溜息をついた。 「……アンドレス…おまえのやり方は、わかった。 だが、残念ながら、おまえの、この方法は失敗だ」 「!…――なんのことだ…? この期に及んで、見え透いた脅しか、言いがかりか…? 見苦しいぞ、スワレス殿」 「……いや…脅しでも、言いがかりでもない…」 険しく睨み据えるアンドレスの顔を見上げるスワレスの目は、まるで宙を漂っているかのように危うく見える。 「スワレス殿…?」 アンドレスは密かに固唾を呑んだ。 「アンドレス、おまえが、こうして我々を人質にしようが、囮にしようが、無駄なのだ。 このようなことでは、ソラータに陣取る我が軍は、微動だにしないであろう」 「な…――!!」 スワレスの言葉に、さすがに、アンドレスの顔色もサッと変わった。 あれほどの酔いも、水が引くように醒めていく。 それほどに、スワレスの声音には、ハッタリとは思えぬ不気味な信憑性が宿っていたのだ。 今度はアンドレスの方が、この事態が、予測外の、しかも良からぬ展開をはじめたことを鋭く察知する。 だが、スワレスの言葉の真意が読み取れない。 「スワレス殿…! それは…どういう意味です?!」 冷静を装おうとするアンドレスのその声に、隠しきれぬ混乱の影が滲み出す。 スワレスを締め上げる彼の腕からは、思わず力が抜けていく。 だが、スワレス自身も、その腕から抜けるでもなく、放心したように、ただ深く溜息をついた。 スワレスは視線を宙に漂わせたまま、骨が抜けたように椅子の背に身をもたれかけた。 「ここで我々が人質にされるにしろ、和議を結んだ上でここに留められるにしろ、我々は、ここに残れば、ソラータの籠城軍から見捨てられるだけなのだ」 「…――!」 アンドレスの大きな瞳が、混乱を深めていっそう大きく見開いた。 「スワレス殿、それは…どういうことです?!」 先刻までとは、ほぼ真逆の様相で、アンドレスの方に、動揺と不安の色が次第に強まっていく。 思いがけぬスワレスの言葉に、アンドレスと同様、二人のやり取りを見守っていたインカ兵も、そして、あの老練の賢者ベルムデスさえも、にわかに険しい眼差しに変わっていた。 その空気の中、やがてスワレスは、偽りとは思えぬ実直な声で、本人自身も絶望的な色を滲ませながら説明する。 「我らソラータに立て篭もっているスペイン軍は、アンドレス、おまえが和議の提案をする前から、もともと、和議を結んで撤退することを主張しはじめた者たちと、それに対して、このまま立て篭もりを続けることを主張する強硬派との二派に分かれていたのだ。 だが、数の上では、強硬な立て篭もりを続行しようとする勢力が強い。 それは、今も変わらぬ。 今、ソラータに残っているあの副官ピネーロは、立て篭もり続行を主張する強硬派なのだ。 あの者は、この和議の話し合いには、はなから反対だった。 これは、偽りなき真実だ。 だから、あの者は、おまえが、ここにいる我々を人質にして、いかに脅そうとも、決して揺らぐ男ではない。 あの者のことだ、我々の命など無視して、ソラータでの籠城を敢行するだろうよ。 おまえたちが、ソラータの住民たちの身を案じて、肝を煮やし、ついに包囲網を解くと言い出すその日まで、な」 「――!!」 アンドレスが絶句している脇で、スワレスが語ったその言葉には、話し振りにも、声音にも、本当に、偽りは全く感じられなかった。 実際、スワレスの説明は、真実であったのだ。 アンドレスは予測外の展開に、顔色を失ったまま、スワレスに迫るようにして問う。 「だけど、あなたと、ピネーロ殿は、同じスペイン人…、しかも、同じ陣営の同志でありましょう! 人質にされ、命の危険にまで瀕しているあなたたちを、そんなに簡単に見捨てるなど――あり得まい?!」 「くく…アンドレス…おまえという奴は、つくづく……」 衝撃の表情で己を喰い入るように見据えるアンドレスに、スワレスは、皮相に歪んだ笑みを浮かべた。 「アンドレス…おまえも、そして、ここにいるインカ兵の者たち、誰もが、まだ、あまりに甘い」 「…――スワレス殿…!」 先刻までの勇壮さは無残に打ち砕かれ、苦渋の翳(かげ)りに覆われゆくアンドレスの表情を眺め上げながら、その腕からゆっくりと己の首をはずして、スワレスは続ける。 「いざとなれば、人の情など、策の邪魔になるばかりだ。 そのようなもののあてにならぬことを、まもなく、アンドレス、おまえも知るだろう。 あのピネーロは、我々がインカ側の人質になって命の危険に晒されようとも、そのようなことには関係なくソラータの立て篭もりを必ず続ける。 ましてや、ピネーロは、先日のおまえに対する襲撃事件の件で、わたしに捕縛までされている。 あの男のわたしに対する恨みも、さぞや、積もり積もっていることだろうよ……」 「!!――で…では、あなたが、ここで和議を結んで、ピネーロ殿を説得に行けば…?!」 今や、アンドレスの眼差しは、縋(すが)るような必死の色に変っている。 「ほお? わたしを釈放するのかね? そんなに、あっさりと、おまえの策を変更する気になったのかね、アンドレス?」 「…――!」 ますます皮相にせせら笑うスワレスの形相は、今はまるで亡霊か何かのように、周囲の者の背筋を悉(ことごと)く凍らせる。 誰もが息を呑み、アンドレスも言葉を失ったまま、ただ呆然と揺れる瞳でスワレスを見つめていた。 「アンドレス、だから、おまえは、何もかもが甘いのだ。 もし、わたしの今の話が全て虚言であれば、おまえは、まんまとわたしに逃げおおせられていたことだろうよ」 「……!!」 水を打ったように不気味に静まり返った天幕の中で、スワレスの乾いた声だけが無機質に響く。 「だが、わたしの話はいずれにしろ、真実だ。 仮に、おまえの言うように、わたしが和議を結んでピネーロの説得に行ったとしよう。 だが、アンドレス…そのようなことをすれば、相手があの者たちである以上、それこそ、わたしがおまえの説得に屈したと見られるだけだ。 残念ながら、言ってしまえば、白人の人間たちは、インカ族の者どもを同等の生き物だなどと思ってはおらぬ。 そんな『下賤で下等な奴ら』に言いくるめられたわたしの話を、誰が聞く? どのみち、全く無駄なことだ」 「そ…それでは…はじめから、和議の成り立つ余地など、微塵も無かったということか……!!」 愕然とテーブルに腕を打ち下ろすアンドレスの脇で、スワレスは、もはや、覚悟を決めた面持ちで苦々しく笑った。 その形相からは生気が完全に失せ、まるで既に死人のようだ。 「ふ…アンドレス…残念であったな。 おまえたちの此度の策も、全て徒労に終わったというわけだ。 そして、わたしの命運も…ここで尽きた、というわけだ――」 かくして、その後の事態は、全くスワレスの言った通りに進んでいった。 和議の席に参じていたスワレスをはじめとしたスペイン兵たちは、アンドレスの手によって、そのままインカ軍の陣営内に監禁されたが、ソラータの街中に立て篭もるピネーロたちは、兵を退(ひ)く気配を全く見せず、強行に「籠城」を続行する構えを変えようとはしなかった。 だが、ここまできて、ソラータを放棄などできようはずのないのは、アンドレスたちインカ側も同様である。 彼らは、結局、再び長期戦覚悟の上でのソラータ包囲を続行するしかなかった。 住民たちの命を人質にとられたまま、しかも、トゥパク・アマルの処刑がますます迫り来る中、もはや打つ手も考えつかず、アンドレスは、そして、アンドレス以外のインカ兵たちも、これまで以上の深い失意の底に投げ込まれていた。 しかし、そのような絶望感漂う空気の中であればなおのこと、将たるアンドレスが、沈んだ顔など見せるわけにはいかなかった。 彼は、表面上は、つとめて明るい表情をつくりながら、「必ず、道はあるはず。決して、希望を失ってはいけない!」と兵たちを鼓舞しつつ、実際に、次なる方策を懸命に模索していた。 だが、トゥパク・アマルの処刑を覆すほどの勢力を、もはや処刑までの限りある期間に盛り返すことなどできるのだろうか?! その可能性の乏しさを、誰よりも深く悟り、心の奥では立ち上がれぬほどに絶望していたのは、他でもないアンドレス自身であったかもしれない。 処刑の日取りは――まだ具体的には公示されてはいなかったものの――それが決して遠くはないことを、アンドレスのみならず、インカの民の誰もが、とても言葉にできぬほどの苦渋と共に察していた。 そして、同様にラ・プラタ副王領で奮戦するアパサも、激しい焦燥の念に駆られる中、ラ・パスの戦線で激闘を展開していたが――実際、その原始的な装備でよくぞ、と思うほどに驚異的な戦闘力を見せつけてはいたものの、結局は、スペイン軍の圧倒的な火砲に対して決定打を与えられぬままに、時間ばかりが経過していった。 ◆◇◆ここまでお読みくださり、誠にありがとうございました。続きは、フリーページ第八話 青年インカ(5)をご覧ください。◆◇◆ ジャンル別一覧
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